孤児から生き延びた女性社長
彼女の子供時代は恵まれませんでした。生後8ヶ月の時に父親が戦争で亡くなり、母親は再婚しました。連れ子と再婚相手の間にできた子供は合わせて15人で、家計は非常に苦しいものでした。トゥイ社長を含め4人の子供はホーチミン市に住んでいる祖母に預けられていましたが、彼女が7歳のとき祖母は他界しました。そこで生活費と学費を稼ぐために、家政婦やベビーシッターなど、さまざまな日雇いの仕事をしました。
ベトナムのお土産を日本人観光客に紹介しているトゥイ社長(写真中央)
17歳の時に籐のかご網やフィルムを使う工芸品の生産・販売の仕事に就きました。生活を維持するために努力しながら、勉学にもはげんだ結果、1978年に薬科大学に合格しました。しかし、大学4年生のときには、家計を支えていた一番上の兄が逮捕され、彼女は勉強を中断せざるをえませんでした。
その頃、ホーチミン市を訪れる観光客の数が多くなり、フィルムで出来た自転車や木造の船などのお土産の人気が高くなり、手作りの工芸品業界は業績を伸ばしました。しかし、また不運が続きました。彼女の取引先だった会社が倒産し、取引ができなくなってしまったのです。
そこで彼女は、自分で店を開くことを決心し義母からお金を借りました。21歳の時でした。グェンフェ通りの店は、他の人とのシェアでしたが、彼女の店では物ががたくさん売れました。英語が話せる人がまだ少なかった中で、彼女はは英語が話せたので外国人観光客相手に商売ができたからです。また、当時ベトナムでは珍しかったバター、缶詰、ウォッカ、圧力鍋などの商品をロシアから入手することにしました。
商売を円滑に進めるために昼間は仕事をして夜はロシア語を勉強ました。90年代に台湾人がたくさんベトナムに進出してくると、台湾人がロシアの琥珀を好むことを知った彼女はロシア人から琥珀を仕入れ台湾人に販売しました。言葉がわからないとビジネスで成功できないと考え中国語の勉強も始めました。それから彼女のビジネスに転期が訪れました。
ビジネスを安定させる為の拠点を得るために、全財産を投入して家を購入しました。当時は土地の値段が安かったため、一等地のグェンフェ通りとドンズー通りの家を4‐5軒購入することができました。購入直後に不動産バブルが起り価格が急騰し、トゥイ社長の財産は100倍から1000倍にもなりました。
アオザイで億万長者に
お客様のアイザイ試着をチェックするトゥイ社長
工芸品の小売のときは世間からの評価は得られませんでしたが、義母の援助により会社を設立し社長になりました。会社の事業内容は工芸品の販売ですが、商売の方法を工夫し規模を大きくすることができました。
次にミス・アオザイブランドを立ち上げた経緯をお聞きしました。
この数年、多くの日本人観光客がホーチミン市を訪れ、彼女の店にやってきました。日本人観光客は「アオザイがありますか。」とよく聞きました。日本人観光客にアオザイが人気あることを知り、ミス・アオザイブランドを立ち上げました。競合店と差別化する為に生地代のみを請求し工賃を取らない価格設定にしました。その結果、戦略通りにミス・アオザイの人気が広まり、インターネットでの販売や日本の展示会に出展することでブランド作りに成功しました。また彼女は日本語の勉強も始めました。彼女のように5ヶ国語を話せる人は、ベトナム人の経営者の中にはなかなかいません。
2011年末に、ミス・アオザイは高級スパの事業をスタートさせました。日本の取引先から「ベトナムのスパのレベルはまだまだだね」と言われ、この分野へ進出してみようと考えました。彼女は日本のスパはもちろん、タイの大手スパ26店舗を回りました。一日に5店舗を訪れサービスの調査をしたこともあります。そして帰国後、日本人に満足していただけるスパ1号店をホーチミン市にオープンさせました。サービスのレベルが高いにもかかわらず、料金は日本の4分の1、タイの2分の1で魅力的な人気店となっています。
彼女は工芸品、アオザイ、スパとまったく違う分野で事業を成功させ、更に高層ビルの建築・賃貸も手がけ、さらにビジネスチャンスを捕まえようとしています。彼女の今日の成功の裏には、誰にも負けない強い意志とビジネスチャンスへの鋭い感覚、絶えまない努力があります。トゥイ社長は成功する経営者の代表であり新時代のベトナム女性を代表する人です。
Sai Gon Giai Phong新聞により